さくら月夜



第九章 旅立ち



「そっか…。あれからもう5年も経つのね。」

「うん。お母さん、この5年間ずっと頑張ってきたじゃない。だから少し休んでいいんだよ。」

「ありがとう。美雪がそんな風に思ってくれてたなんて、お母さん何だか嬉しい…。」

「ふふん。私だって、もう子供じゃないんだから…ね♪」

「まぁ!」

美雪がおどけたように言ったから、さくらも思わず噴出してしまった。

まだまだ子供だと思っていたけど、美雪なりにいろいろ考えてくれてたのね

さくらの気持ちを察して、明るく振舞う美雪の気持ちが痛いくらいに嬉しかった。





さてと…

美雪の了解も得られたことだし、急いで旅行の準備を進めなくっちゃね♪

急にウキウキしてきた。

行き先…

未来と話しをしていた時は、散々迷って決められなかったくせに、今はハッキリと決めていた。

箱根に行こう!!

箱根は、幸彦と新婚旅行で訪れた場所だ。

既に美雪がお腹にいたから、大事をとって近場の温泉…というお決まりのパターンだった




その夜、さくらは幸彦との思い出に耽りながら、遅くまで旅の支度をしていた。

幸彦の死、それは悲しい出来事であったが、あの日、最後に残された言葉は

愛されることの喜びとその証、そして生きる希望を、さくらに与えてくれたのかもしれなかった。

さっきまで沈んでいたのが嘘のように、とても楽しい気持ちになっていた。

なんだか不思議な気分だった。

そして、ふと思い出したことがあった。

「そうだ!眼鏡!!箱根に行く前に、受け取りに行かなくっちゃ!」





入口のガラスドアから中を覗くと、和田がショーケースを磨いている姿が目に入った。

初めてここを訪れたとき、その店構えに気後れしたさくらだったが、

今日は、和田の姿を見つけて、いともすんなり入ることができた。

「いらっしゃいませ。これは…伊藤さま、お待ち申し上げておりました。」

「こんにちは、和田さん。」

さくらは、以前と同じ応接間に通されて眼鏡を受け取った後、

しばらくの間、和田と他愛もないおしゃべりを楽しんだ。

ただそれだけのことなのに、さくらは心が優しく癒されていくような気がしていた。

きっと、和田の人柄がそうさせてくれるのだろう。



「ステキな眼鏡をありがとう。」

「よくお似合いでいらっしゃいますよ。不具合などございましたら、いつでもご来店ください。」

「ありがとう。そんな風に言われると、何もなくても和田さんに会いに来ちゃいそうだわ。」

「伊藤さまがいらしてくださるなら、いつでも歓迎いたしますよ。」

二人で顔を見合わせて笑った。



「ご旅行ですか?」

帰り際に、さくらの荷物に気付いた和田が聞いた。

「えぇ、これから箱根へ。初めての一人旅なの。」

「そうですか。お気をつけて行ってらっしゃいませ。よい旅を…。」

「ありがとう。行ってきます。」

一人旅…そう口に出した瞬間、さくらは少しだけ後悔したが、

余計なことを詮索したりしない和田の気遣いを感じて、とても嬉しかった。

そして、心なしか軽くなったボストンバッグを手に取ると、駅へと道を急いだ。





その頃、店にはジャージ姿の光一が、息を切らせて飛び込んでいた。

「和田さんっ!
・・はぁはぁ・・・彼女はっ?!」

「おやおや…そんなに息を切らせて。大変残念ながら、今しがたお帰りになりましたよ。」

両膝に手を付いたまま、ゼイゼイと息をしている光一に向かって、和田がなぜか嬉しそうに言った。

「か・帰った〜?! 間に合わんかったか〜。」

「追いかければ、まだ間に合うと思いますよ。どうなさいます?」

和田が腰を少しかがめて、光一の顔を覗き込むように言った。

「はぁ〜・・・。も、ええわ。これ以上…走れんて。」

差し出された水を一気に飲み干すと、まだ少し乱れたままの息遣いで

「ま〜た、和田さんにカッコ悪いとこ見られてしもたな〜。」

「お言葉ですが…『また』とおっしゃられましても
…くっくっ…いつものことではございませんか?」

「わっはっは…そっか〜、いつものことやったな。うひゃひゃひゃ…」

和田が笑いをかみ殺しながら真面目な顔で言うから、光一もつられて大声で笑いだしていた。



「それじゃ、また来ます。これからロケなんですよ。」

「ロケですか、大変ですね。お気をつけて行ってらっしゃいませ。」

「うん。」

「あ…そう言えば。伊藤さまも、これからご旅行だと…。

確か、箱根に行かれるようなことをおっしゃってました。」

「は・箱根っ?!」

「はい。私の聞き間違いでなければ…そのように。」

「へぇ〜。
ふふん…」

光一が横を向きながら、嬉しそうに小さく鼻で笑ったのを、和田は見逃さなかった。

「ところで光一さまは、どちらへ?」

「アハハ、内緒!内緒〜!!ロケ先なんか、言われへんやん。それじゃ!!」

光一は帽子を深く被り直すと、来た時と同じくらいの勢いで店を飛び出して行った。

そして、その後ろ姿を和田が笑顔で見送っていた、












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