さくら月夜



第八章 最期の言葉


「美雪、ちょっとお願いがあるんだけど…」

「ん?なに?」

「明日から3日間、おばあちゃんの所へ行っててくれないかな?」

「え〜?どうして?」

「お母さん、お休み貰ったから、ちょっと旅行に行って来ようと思って…だめかな?」

「ふ〜ん。もしかして…いい人でも出来た?」

「や〜ね、何言ってんの!一人旅よ。」

「そう…。なら、いいけど。」

「ごめんね。一緒に行ければいいけど、美雪は学校があるでしょ?」

「いいよ。お母さんも、お父さんが死んじゃってから、一人でのんびりしたことないもんね。」

「美雪…
ありがとう

思いもよらなかった娘の言葉に、さくらは5年前の出来事を思い出していた。





さくらの夫『幸彦』は、5年前の春、仕事先で急に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

さくらが幼かった美雪を連れて、搬送先の病院に駆けつけた時、幸彦は既に冷たくなっていた。

何が起きているのか…

その時のさくらには理解の限界をとうに超えていたのかもしれない。

何も考えられなかった。

医師や看護婦の声がずっと遠くの方で聞えていた。

そして、美雪が幸彦に取りすがって泣いている声だけが、頭の中でこだましていた。

悲しいはずなのに、一滴の涙も出なかった。

まわりの助けを借りて、取り乱すこともなく喪主としての務めを果たした。

一見、気丈な妻…周囲の目にはそう映っただろう。



初七日が明けた頃、一人の青年が訪ねて来た。

幸彦が倒れた時、一緒にいた会社の後輩佐々木だった。

幸彦は新聞社のカメラマンだったから、必ずライターと行動をともにしていたのだ。

そして、あの日、幸彦は彼と取材に出かけていた。

「あの…いつお話すればいいのか、ずっと迷っていたのですが…」

幸彦の遺影に手を合わせた後、さくらの方に向き直って、彼が突然話し始めた。

「実は。あの日…、伊藤さんが倒れた日。二人で取材に行ってたんです。」



そして、

その帰りに幸彦が倒れたこと。

その日、朝から具合が悪そうだったのに、無理して仕事を続けていたこと。

病院まで付き添い、最期を看取ったこと。

幸彦が尊敬できる立派なカメラマンだったこと。

優しくて頼りになる先輩だったこと。

いつも娘の自慢をしていたこと。

時折、声を詰まらせながら、熱心に語ってくれた。



そして、今日まで悩んでいたことを。



彼は意を決したように、小さなボイスレコーダーを取り出して言った。

「実は、伊藤さんが最期の言葉を、奥様に伝えて欲しいとおっしゃったとき、

無意識のうちに録音スイッチを入れてしまったのです。

でもあとで考えると、とても不謹慎なことをしてしまったのではないか…とか

それでも、レコーダーに残る伊藤さんご本人の言葉をお聞かせする方がよいのか…

私の口からお伝えするべきなのか…」

お願い。聞かせてください。」

彼が言い終わらないうちに、さくらは叫ぶように答えていた。

「聞きたいんです。彼の…あの人の声が。」

佐々木が静かにボイスレコーダーのスイッチを入れた。





ザーという雑音の中に、機械の規則的な信号音が、器具の金属音が、

さらに医師や看護婦の声が交じり合って、騒然とした雰囲気が流れ出した。

そして、耳を澄ますと、その中にかすかな声が聞えてきた。

「さ・・・
くら。す・・すま・な・・い。

紛れも無い幸彦の声だった。

時折荒く短い呼吸を繰り返しながら、幸彦は必死に言葉を発していた。

「・・・く・ら。」

「みゆき・・・。みゆ・
・・・・・たの・・む。

「・・・・・・・・」

荒い呼吸が喘ぎ声に変わっていった。

「伊藤さん。伊藤さん。」幸彦を必死に呼ぶ佐々木の声があった。

「さ・
くら・・・に。・・・あり・・が・と・・・。あ・い・・・・・・して・・・い・・・・つた・え・・・・

ピーーーーー

無情な信号音がけたたましく鳴った。

「伊藤さん?
伊藤さんっ!!・・・戻ってきてくださいよ〜」

佐々木の叫び声がすべての雑音をかき消すように続いた。

医師の死亡宣告の声、看護婦の声、器具を乗せたワゴンの軋む音、ドアの閉まる音…

すべてが収められていた。

「伝えますよ。必ず・・・」佐々木が嗚咽交じりの低い声で言った。

ザーーーーー

しばらく続く雑音を破って

「お父さんっ!!」

ドアの開く大きな音と、美雪の声が飛び込んできた。



それから一瞬の無音状態があって、レコーダーのスイッチがカチリと上がった。





幸彦が死んでから、この日まで

一滴も流れることのなかった涙が、堰を切ったように…後から後からあふれ出して止まらなかった。

そこに佐々木がいるのも忘れて、さくらは大きな声を上げて泣き続けていた。

そして佐々木も、膝の上で拳を強く握りしめたまま、静かに肩を震わせていた。

窓の外では、庭の桜がヒラヒラと散り始めていた。








[PR]動画