さくら月夜



第三十章 愛しているから  





『さくら今夜逢いたい  光一』

海外でのCM撮影から帰国してすぐにさくらへメールを送る。

光一のスケジュールは、3月の後半から再び忙しさに拍車を掛けていた。

レギュラー番組の収録に各種雑誌の取材をこなす一方

続々とイレギュラーの仕事が舞い込んでいた。

そのひとつが新しく決まったCMの撮影…光一の大好きなコカコーラだった。

光一からはCMが決まってすぐにさくらの元へメールで報告があった。

念願叶ったCMに、光一の喜びようといったら相当なものだった。

そのCMとタイアップする新曲のレコーディングにPV撮りもある。

そして急遽決定した追加コンサートの準備等々…

まさに目の回るような忙しさだ。





おかえりなさい…

光一の無事な帰国を喜びながらも、さくらはある決意をしていた。

『ごめんなさい。明日は無理。光ちゃんも久しぶりにゆっくり休んで疲れをとって。』





え…?

さくらからの返信を読んで、光一は一瞬自分の目を疑う。

さくらが逢うことを断ってきたのはそれが初めてだった。

「まっ、しゃーないか。逢えんときもあるわな。」

さくらにはさくらの生活がある。

いつも自分の都合だけに合わせてもらっていることも気にはなっていた。

光一は取り立てて深く考えることもなく、再びさくらに返信した。

『また連絡する』





ほんとは私だって逢いたい…

でも今は…

ごめんなさい


光一からのメールが届いたとき、さくらは画面の向こうに映る光一を見ていた。

それは海外撮影に出発する直前に収録されたはずのレギュラー番組で

そこに映る光一は、少し前に逢ったときよりも更に痩せたように見えてならなかった。

疲れた表情はメイクで隠されているが、髪のツヤもなく笑顔もどこかぎこちなさが見える。

テンションの高さが逆にその疲れを象徴しているようで、見ているこちらが切なくなる。

今はゆっくり休んで…お願いだから

さくらは光一が自分と逢う時間のすべてを、彼の休息のために使って欲しいと願っていた。

このままだといつか…

いつか…


幸彦の死がフラッシュバックする。

ちょうど今頃と同じ季節だった。

桜の花とともに逝ってしまった幸彦の面影と、疲れ果てた光一が重なる。

悪い想像はやめよう…

そう思い直して、頭から切り離そうとすればするほど、それはリアルな夢となってさくらを苦しめていた。

今はただ…ゆっくりと身体を休めて欲しい

さくらの願いはただそれだけだった。

あの日と同じように、月灯りの中、今年も庭の桜が風に舞い始めていた。









久しぶりに自宅の湯船にゆっくりと浸かって身体を十分に温める。

タオルを巻くこともせず裸のままでキッチンに入り、冷蔵庫からコーラを取り出す。

濡れた頭をガシガシと乱暴に拭きながらソファに身体を沈めてコーラを飲む。

リモコンを掴んでピッピとボタンを押すと、そこには唸り声を上げるフェラーリが映し出された。

「な〜んか久しぶりやな…」

光一が誰もいない部屋で独り言のように呟いて、小さなゲップをひとつ吐く。

誰にも遠慮のいらない自由な時間と空間…光一はこのひとりだけの時間が何よりも好きだった。

静かな時間が過ぎていく。












つまらん…

光一は大きな溜息をついて勢いよくソファに倒れ込むと、両足を肘掛の上に音を立てて落とした。

大好きだったはずの時間と空間が、いつしか退屈だけを運んでいることに気付く。

テーブルの上に投げ出されたままの携帯が目に入るが、意識的に目を背けた。





「さくら…」

思わず口をついて出た言葉に光一自身が驚く。

たった一度逢えないだけで、こんなにも落ち込む自分が情けなくもあった。

いつの間にか心の中をさくらの存在が埋め尽くしていることにあらためて気付かされる。

しかし、ますます深みに嵌り込み自分自身を見失いはじめていることなど到底気付きはしなかった。

そのとき既に光一はさくらの魅力から逃れることができなくなっていた。









『逢える?』

『ごめんなさい』





『明日は?』

『無理だわ』



あれからずっとこんなメールのやり取りが続いて、結局逢えないままに日々は過ぎている。

しかし、さくらと逢っていた時間を一人で過ごす日が続くと、光一の体力は急速に回復していた。

収録後の食事を断ることも少なくなって、体重もベストの状態まで戻ったし顔色も随分といい。

それなのに最近の光一はずっと不機嫌なままだった。

4月もなかばになり、新曲のリリースと同時に始まったキャンペーンもほぼ終わって

あとは追加コンサートの準備とその本番を残すだけの時期になっていた。

体調も戻り、スケジュールにも少しだが余裕が生まれている今

一番一緒に過ごしたいと思うさくらと逢えないのは、光一にとって不満以外のなにものでもなかった。

あれからさくらとは一度も逢っていない。

たまには電話で声を聞こうかとも思ったが、声を聞けば逢いたくなる…

逢いたくても逢えないのだから、かえって辛くなるだけだ。

いつになれば逢えるんや?












『なぜ?』

ピッ!

書いては消す。

そしてまた書く。

光一は楽屋で、暇さえあれば携帯を握り締めてこの作業を繰り返していた。

逢えない理由を聞きたいと思いながら、それを実行に移すことも出来ず悶々とした時間を過ごす。

まだ小さなプライドが邪魔をしていた。









「光一?おまえさっきから何しとん?」

「おゎっ!  …ぁ。  あ〜押してもうた。」

光一は肩越しに突然剛から声を掛けられ、驚いた拍子に押してしまったボタンを恨めしく眺めた。

「おまっ、何すんねん!!」

当然のことながら怒りの矛先は剛に向けられる。

「はぁ?」

「送信ボタン押してもうたやん…」

ガックリと肩を落とす相方を見て剛が不思議そうな顔を向けると同時に怒鳴られたことに文句を言う。

「送信したらあかんメールなん?そんなん書くからやん。俺のせいちゃうわ。」

「はぁ…もうええわっ!」

光一は溜息を吐いて携帯を閉じるとテーブルの上に放り出した。

多分…返事はこない

  そう…多分






光一は小さな苛立ちと不安を胸に生放送のステージへと向かった。









♪♪♪

着信音でそれが光一からのメールだと分かっていたが、さくらはそれを確認することをためらう。

また嘘をつかねばならないことが苦しかった。

最近はずっと…光一から逢いたいと言われるたびにそれを断っている。

今はこれが一番いい方法なのだと、さくらは自分自身に言い聞かせていた。

そして光一は一度たりともその理由をさくらに問うこともしない。

『逢いたい』と届くメールに『逢えない』と返信すれば『じゃまた』、それで会話は終わりだった。

以前のようにメールで会話を楽しむことなど殆どなくなっていた。

電話がかかってくることもない。

光一のことを思ってとった行動だったが、日を追うごとにさくらの中で不安が渦を巻き始める。

いまだ自信の持てない恋愛に、さくらは光一を信じることさえも忘れそうになっていた。

そして

皮肉なことに、さくらが光一を避けようとすればするほど

光一がさくらへの思いをますます強くしていることなど、さくら本人は気付くはずもなかった。







その夜、さくらは久しぶりに今の光一を見た。

もちろんテレビ画面を通してのことだったが、少しふっくらとした光一の姿にホッと胸をなでおろす。

しかし音楽番組での新曲披露も今夜の生放送が見納めで

またしばらくはいつ収録したのか分からない過去の彼を見ることになるのだ。



二人が白い衣装で軽快なリズムともに歌い始める。

さくらは懐かしむように光一を見つめた。

えっ?

光一が歌詞を間違えた。

そして間違っている本人は気付かないまま歌い続けている。

あ…気付いた。

ふふっ…光ちゃんたら

一瞬見せた少し焦った感じの表情

歌い終わった時のリアクション

すべてが彼らしくて思わず笑みがこぼれる。

それは次第に切なさへと変わり、溢れてきた涙でとうとう画面が見えなくなった。





逢いたい…

逢いたいよ…光ちゃん













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