さくら月夜



第二十五章 告白  



静かにまどろむ幸せな時間は短くて…

このまま少しでも長く…たとえ1分でも1秒でも

今は光ちゃんのそばにいたい

このまま帰りたくなんかない

でも…



美雪が待っている





さくらは光一に告げなくてはならない言葉を、その感情に流されるまま既に何度も飲み込んでいた。

一体何から話せばいいの?





光一は光一で、時間を追うごとにさくらの様子が気になリはじめていた。

何となく重苦しい空気が漂い、会話も途切れがちになっている。

カチリ

手持ち無沙汰を紛らすためにタバコに火をつける。

今はまだ胸に広がる不安に気付かない振りをするしかなくて…

フッ

小さな溜息まじりの煙を吐いた。












「な…今夜は帰さへんで。ええよな?」

さくらの肩を軽く抱き寄せると、光一は思い切って聞いた。

さくらの肩が小さく震えて、少し悲しげな瞳が向けられる。

ズキンッ

不安が胸を貫く。

しかし「Yes」の返事を期待していた光一は、それに気付かない振りで強引に次の言葉を繋ぐ。

「ハハ…まさか、帰るやなんて言わへんよな? 」

・・・

冗談めかして言ったつもりが、冗談にならないくらい顔が引きつっているのは光一本人もわかっていた。

そして

黙ったままうつむくさくらに、言い知れぬ不安を感じていた。

タバコを持つ手が微かに震えて、光一はそれを隠すように点けたばかりのその火を揉み消した。

「さくら?」





「光ちゃん…あのね」

溢れ出しそうな涙を必死に堪えて、さくらは光一に精一杯の笑顔を向ける。

一瞬、ギュッと心臓を鷲掴みにされたような痛みが光一の胸に走る。

それをさくらには悟られないよう、光一は小さく微笑んで静かにその顔を覗き込んだ。

「ん? なんや?」

「私…帰らないと」

「え?」


帰る?


顔をあげたさくらが発した言葉に、光一は不安よりも驚きの色を濃くした。

どういうことや?

「ごめんなさい」

それだけ言って、さくらはボロボロと涙をこぼした。

さくらの口から出た言葉に光一はただ呆然とするしかなかった。










「さくら?…分かるように説明してくれへんか?」

光一はしばらくしてそう言うと、さくらの頬に優しく手を伸ばしてその涙を拭った。







さくらは自分の頬に触れる光一の手が震えてるのを敏感に感じ取っていた。

もうこれ以上、彼を悲しませることなんて出来ない。

さくら、本当のことを言うのよ。

そのために光ちゃんに嫌われても…

全てが終わりになったとしても…

そう…

もう後悔しないって決めたんだから。







「…待ってるの」

「え?」

「娘…娘がいるの」

消え入りそうな声だった。

二人の間に再び小さな沈黙が訪れる。






「だから、帰らないと…」

「!!」

光一は何も言わず静かに立ち上がると、そのままフラフラと歩き出した。

旦那さんおるんや…

なら…なんで?

さくらは、なんでココに来たんや? 

なんで…

なんで俺に抱かれたんやっ?!


疑問と怒りが沸々と沸き起こるのと同時に、言い知れぬ悲しみが光一を支配しはじめていた。

口の中がまるで砂漠のように乾いていく。

光一はキッチンに立って、流しにグラスを置くと力いっぱい蛇口をひねった。

勢い余った水がグラスから溢れて流れ続けていたが、光一はそれをじっと見つめたまま動かない。

重苦しい空気の中、激しく流れ続ける水の音だけがそこにあった。





「…光ちゃん」

さくらの声にハッと我に返った光一が蛇口を閉めて、グラスの水を一気にあおる。

ゴクゴクと音を立てて鳴る白い喉…

口角からこぼれた雫が、その喉を伝ってTシャツの胸を濡らす。

光一は濡れた唇を左の腕で乱暴に拭うと、さくらの方を見ないまま静かに口を開いた。



「…帰れや」



「光ちゃ…」

「帰れ!言うとんのやっ!!」

さくらの言葉を遮るように怒鳴ると、手にしていたグラスを叩きつけるように置いた。

カシャン!

割れたグラスの破片で傷ついた光一の手から血が流れ出す。

光一は真っ赤な血がガラスの欠片に纏わりつく様を見据えたまま動こうとしない。

長い前髪がその表情を隠してはいたが、さくらには彼が泣いているように見えた。

そんな光一の姿に、一瞬駆け寄ることも出来ないまま立ちすくんだ。



ごめんなさい。

心の中で小さくつぶやく。

そして、押しつぶされてしまいそうな気持ちを奮い立たせて光一の傍に歩み寄った。

「大丈夫?」

そう言って、そっと右の腕に触れる。



「触んなやっ!」

「っ…」

光一が振り払おうとしたとき、その手は思いがけずさくらの頬を打ち真っ赤な血がさくらの顔に飛び散った。

あっ!!

光一は一瞬だけ戸惑いの表情を浮かべてさくらの方を見たが、すぐに視線を外して横を向いた。





「…悪かった」

傷ついた掌をギュッと握り締めて、さくらの方も見ないままに光一が呟く。

「ううん。悪いのは・・・私」







「それにしても、まさか…こんな結末が待っとったとは…な」

一瞬の沈黙が流れたあと、光一が自嘲気味に口の端で笑いながら言った。







このまま光一の部屋を飛び出してしまえばどんなに楽か。

これ以上一緒にいても、もう彼を傷つけること以外できないような気がする。

ううん…

私はもう十分に彼を傷つけてる。

そして、今以上に彼を苦しめることになるかもしれない。

それでいいの?さくら?



このまま逃げ出しても、楽になれるのは一瞬だけ…

きっとまた後悔に苦しむのは分かっている。

けど

私が、私自身が楽になるために、彼を苦しめることになるかもしれない。

さくら…あなたはそれでもいいの?








彼女が結婚してたやなんて…



こんなにも好きなのに…愛しているのに!!



もうこのままじゃいられへん

わかってるんや

これ以上彼女を好きになったらあかん…てこと

けど…

今は彼女の本当の気持ちが見えない

なんでや?

なんで…さくらはココに来た?



俺に抱かれたんはなんでや?








「本当のこと…教えてや」

大きく動揺していた気持ちがほんの少しだけ冷静さを取り戻していた。

今は真実を知りたかった。

それを受け入れることで諦められるかもしれない。

いや…そうしなければならないのだと自分自身に言い聞かせていた。



「光ちゃん」

光一の表情は険しかったが、そこには事実を受け止めようとする決意が見えた。

微かに穏やかさの残る目元にさくらは小さく安堵する。

さっきまでの動揺をあらわにした光一の姿はもうそこにはいなかった。

「ごめん…」

光一の左手が、さくらの顔に飛び散った彼の血を優しく拭っていた。



この人になら伝えられる…大丈夫



さくらは美雪のこと、幸彦のこと…

今まで自分の身に起きてきたすべてを…

ただ一つ残る不安以外のすべてを…

ありのままの事実を夢中で話した。

時折、当時のことを思い出して涙を流しながら、そして言葉を詰まらせながら…

光一の穏やかな瞳に見守られるなか、さくらは一気に話し終えた。










「そやったんや…」

さくらからすべてを聞いた光一の口からはそれしか出てこなかった。

あまりに突然の告白に戸惑うばかりで、どんな言葉をかければいいのか思いもつかない。

やっとつかまえた愛しい人の、予想だにしていなかった現実に光一は正直うろたえていた。

しかしそれはそれで、いままでのさくらを理解するには十分だった。

なぜ自分を避けようとしたのか…

いつも迷い…泣くのか…

さくらがどれほど幸彦を愛していたのか…

幸彦もまたどれほどさくらを愛していたのか…

今のさくらを支えている大きな存在が美雪なのだということも。

そして

たとえ娘がいたとしても、今…さくらはひとりだということ

その事実に対して安堵する自分がいることに気付いていた。







「まだ…ご主人を愛してるんや?」

「・・・」

「さくら?」

「多分…あの人のことは一生忘れられないと思う。」

「・・・」

「彼を愛してた。でも、今は…」

「今?」

「今は…光ちゃん、貴方だけ」

「さくら…」

「光ちゃん…貴方を愛してるの。 私は…光ちゃんを愛してる!」







彼女の口から語られた真実を聞いても、俺の気持ちは変わるはずがなかった

多分…

何があっても、何を聞いたとしても…彼女を愛する気持ちに変わりはなかったんじゃないかと思う

もしかしたら…

たとえ彼女が結婚していたとしても、俺は彼女を愛し続けていたかもしれへん

頭では分かっていても、本能が、感情が…きっと彼女を忘れさせてはくれなかったろう

そして、そんなやり場のない虚しさを抱えたまま、俺はこれから先も生きていくはずやったと思う








さくらの存在が想像以上に大きくなっていたことを光一は身をもって感じていた。

「今まで本当のことをいえなくて…ごめんなさい」

「いや…話してくれてありがとう」

ようやく素直な気持ちを取り戻していた。

「俺の気持ちは変わってへんよ」

「光ちゃん?」

「…ずっと俺のそばにおってくれるな?」

「私…いいの?」

光一はそっとさくらに歩み寄り、その肩を抱きしめて言った。

「ええに決まっとるやん」

さくらは声も出さずに、ただポロポロと涙を流していた。

「愛してる」

肩を抱く手に力を込めて光一が言う。







「あの人のこと、早く忘れなきゃ…ね」

光一の腕の中でさくらがポツリと言った。

「…忘れることないやん 」

「えっ?」

 「だんなさんのこと、愛してたんやろ?」

さくらがコクンと頷く。

「その気持ち…大事にして欲しいんや」

「光ちゃん?」

「俺は…今のさくらが好きやし、さくらはさくらや。そのままでええ」

さくらが光一の言葉に驚いて顔をあげる。





「私も光ちゃんが好き。でも怖い…」

「怖い?」

さくらが頷く。

「何が怖いんや?」

「・・・」

「今の俺らに怖いものなんてあらへんやん」

「でも…」

「俺が…守ったるから。俺じゃあかんか?」

そう言ってさくらを抱く腕にさらに力を込める。

「光ちゃん」

この人を…私は今、たしかに愛してる

でも…この一歩を踏み出すのが怖い


「何があっても…必ずさくらを守ったる。 それとも俺を…俺を信じられへんか?」

光一は一旦身体を解くと、その腕でさくらの肩をグイッと自分の方へ向けさせる。

「愛してるんや! さくら…」

頑なだったさくらの心が光一によって開かれた瞬間だった。

ここに私の愛する人がいる…



光一は、顔を上げたさくらの涙をもう一度指で拭って、その唇に優しくKissをした。

強張っていた唇が徐々に柔らかくなるのを感じて、その心が開かれていくのを確信していた。

この先…何があったとしても俺はさくらを愛し続ける

俺がさくらを守るんや













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