さくら月夜



第二十二章 幸せな時間  



「え…?」

驚いたさくらの動きが止まる。

今…何て言ったの?

目を見開いたまま突っ立っているさくらの耳に、今度ははっきりと聞えた。

「逢いたかった。」

光一の言葉を聞いたさくらの瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちて頬を伝う。

それが合図かのように、光一はさくらの腕を引き寄せるとその身体をしっかりと包み込んだ。


「ほんとは…ものすごく逢いたかったんや。」


「あ…」


力強く抱かれた腕の中で、その肩に顔をうずめているさくらの耳元に光一が囁いた。


「だから…もう逃げんといてな。」


「…ん」


声にならない声でそう答え、静かに頷いた。

さくらは、震える両手を光一の背中にそっとまわすと、その手でシャツをギュッと掴んだ。

そして光一の肩に顔をうずめたままで泣き続けた。

光一はさくらの柔らかな髪に優しく口づけし、愛しげに撫でながら言った。



「やっと、つかまえた…」



光一の切ない言葉に、さくらは心が震える思いだった。

思い返してみれば、幾度となく光一から…いや、自分自身から逃げ続けて来た。

本当は逢いたかった…こうやって抱きしめられたかった…

ずっと心の奥に押しとどめていた頑なな気持ちが、今、ゆるゆると溶けていく…

静かな時間が流れ、優しく穏やかな心が二人の中に満ち溢れていた。

気付かないうちに求め合っていた愛しい人が、今、互いの腕の中にいる。

二人は静寂の中で、その幸せを噛み締めていた。



「さくら…さん」



いきなり名前で呼ばれて、心臓がドキンと大きな音を立てた。

ピッタリと合わさった胸から、その激しい鼓動が伝わるんじゃないか…

そう思うと、恥ずかしさでいっぱいになって、さくらは更に強く光一にしがみついた。



「さくら…」

身体を固くして強くしがみついてくるさくらの肩をそっと離すと、

意を決したように光一が言った。


「僕を…見て。」


「・・・」


さくらは、小さく首を振り、ますます俯いてしまう。

光一は、その頬を両手で優しく包み込むようにして、そっと持ち上げた。

さくらは涙に濡れた目をかたく閉じたままで、震えながら次の瞬間を待った。

光一はさくらの泣き顔を、愛しくてたまらないという瞳で見つめると

その涙をそっと指で拭ってから、静かに自分の影を重ねていった。




ギュイィィィーーーン!!

静寂の中で鳴り響く携帯




突然のことに驚いた二人は、弾かれるようにその身体を解いた。

「…くっくっく」「…ふふふ」

二人で顔を見合わせると、一緒に声を上げて笑った。

一気に二人の緊張が解けていく。



光一が少し紅潮した顔を音のする方へ向けてから、さくらに苦笑いを返した。

「剛やな。」

そして、そのままさくらの手を引き、ソファの場所まで戻ると、唸り続ける携帯を手に取り

「やっぱ、そうや」

発信者の名前を確認してそう言うと、笑顔のまま通話ボタンを押した。



「もしもし…俺や。」

『・・・・』

剛が何を言っているのかは聞えなかった。

「あ〜、わかっとる。」

光一は返事をしながら、空いた手でさくらに向かって、ソファに座るようジェスチャで促した。



さくらは極度の緊張から開放されて、へなへなと崩れるようにソファへと座り込み

「ふぅ…」

と、大きな息をついた。

膝がまだガクガクと震えている…



「アハハ…おまえ、最っ悪なタイミングやわ。」

携帯を耳に当てたままで、部屋の中を歩きながら光一が笑って返事をしている。







はぁ…

心臓が壊れてしまうのではないかと思えるくらい大きな音を立てて鳴っていた。

光一に抱きすくめられた瞬間、心も身体も冷静さを失っていた。

そして、今、ここで起きている現実をさくらはまだ信じられないでいた。


これから…どうしよう?


光一に目を向けると、彼はさくらを気にしながらも、まだ剛と話し続けていた。

『だいじょうぶよ』

声に出さず唇だけでそう返事をすると、さくらは立ち上がって窓の方へと向かう。

カーテンがピッタリと閉じられたままの窓に近づき、小さくそれをめくって外を見ると

いつの間にかシトシトと雨が降り始めていた。





「後悔しない…?」





テラスのコンクリートに落ちて染み込んでいく雨粒を見ながら

さくらが小さくつぶやいた時、突然部屋の明かりが消えた。

そして

慌てて振り返ろうとした途端に、後ろからギュッと抱きすくめられた。



「こう…ちゃん?」


「帰さない…」



さくらが返事の代わりに頷くと、光一がその白く細い首筋にそっと唇を落とした。

光一の柔らかな唇を首筋に感じて、さくらは静かに目を閉じた。



このまま時間が止まってしまえばいいのに…

これが夢なら、もう、それでもかまわない…


たとえ後悔することになったとしても

今だけは…


雨はいっそう強くなって、バラバラと激しい音を立て始めていた。











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