さくら月夜



第二十一章 ほんとの気持ち  



その日の午後…

さくらはある建物の前に立っていた。

剛からの電話で、半ば押し切られるように約束してしまった。



もう二度と会うことはないと思っていたのに…

光一に会うのは怖い。

二度と会ってはいけないと思っていたし、本来ならば会うべきではない相手なのだ。

頭では理解しているのに、結局、心はそれを受け入れることができなかった。

会いたいと思う気持ちが、胸に刺さって抜けない棘のようにチクチクと

その存在を主張し続けていたのだから。

そしてその思いは、剛からの電話によってますます揺ぎ無いものになっていた。

剛くんに頼まれたから仕方なく?ううん…それを口実にしたいだけ。

本当は彼に会いたかった。会いたくて会いたくて…どうしようもなく会いたくて。



たとえこれが最後になったとしても、後悔はしない。

ちゃんと話をしよう…光一がそれを望んでいるのなら。

逃げていては何も始まらないし…ましてや、終わらせることなどできやしないのだから。

さくらは覚悟を決めていた。





瀟洒なマンションを上まで見上げてから、大きく息を吸った。

そして震える指で、剛に教えられた番号のボタンを一つずつ押す。

・・・

息を呑んで待ったが、何の応答もない。

どうしよう?

少し考えてから、もう一度だけボタンを押してみた。

「・・・はい。誰?」

インターホンから、少しかすれた低い声が聞えた途端に、膝がガクガクと震えはじめた。

「あ、あの。伊藤…です。」

「伊藤…て? だれっ?!」

急に不機嫌で険しい言い方に変わって、更にさくらを怯えさせた。

「ご、ごめんなさい。あの、伊藤…さくらです。」

声が上ずってうまく喋ることができなかったが、かろうじて搾り出すように名前を告げた。

「ぇ…」

インターホンの向こう側で光一が絶句しているのが分かった。

「どうしてココが…?」

戸惑いを隠せない様子で、独り言のようにつぶやく声が聞こえた。

それには答えず黙っていると、目の前の巨大なガラス扉がすっと開いた。

「あ…」

「とりあえず入って。ロビーにインターホンがあるから、もう一度部屋の番号を押してくれる?」

「は、はい。」

スモークのかかったガラスの中に一歩踏み込むと、外からは見えなかったが

そこはホテルのロビーさながらのエントランスホールになっていた。

そしてさくらのうしろで、今開いたガラス扉が静かに閉まった。

外の世界とは完全に遮断されて、さくらは一人で取り残されたよう錯覚に陥った。

自分の知らない世界に足を踏み入れてしまった…そう感じて不安が胸をよぎった。

おずおずと前に進む。

右手の壁面には、ずらりと並んだ郵便受けが…

そして、正面に部屋番号と住人の名前が並んだ大理石のインターホンがあった。

指定された番号に光一の名前はなかったが、さくらはためらうことなくそのボタンを押した。

今度はすぐに返事が返ってきた。

「じゃ、ロビーの一番奥にあるエレベータで上がってきて。出たら左だから…」

「はい。」

キョロキョロと広いエントランスを見渡すと、入口付近のエレベーターと、

ホールのずっと奥の方にあるもう一基のエレベーターが目に入った。

誰かに会いはしないかと、ビクビクしながらホールを進んでエレベーターに乗り

光一の部屋がある階のボタンを押す。

エレベーターはすぅっと吸い込まれるように浮かんだかと思うと、あっという間に8階に着いた。

「出て、左…」

小さくつぶやくと、光一の部屋へ向かって歩きだした。

「810…あった、ココだわ。」

ドアの前で番号を確認すると、気持ちを落ち着かせるように、二度ほど大きく深呼吸した。

そして、ドアホンを鳴らそうと手を伸ばしたとき、突然そのドアが開いた。

驚くさくらに向かって

「入って…」

光一はそう言うと、そのまま背を向けてスタスタと奥の方へと歩き出していた。

光ちゃん、怒ってる?当然よね…こんなとこまでおしかけてきて

光一の素っ気無いその態度に、さくらは不安でいっぱいになっていた。

後悔しないと決めてきたのに…

来てしまったことを、既に後悔しはじめていた。

そして、どうしていいのか分からず、そのまま玄関に立ち尽くしてしまった。

ズンズン奥へと進む光一の後ろ姿を黙って見ていると、光一が何か言いながら振り返った。

「○※△・・・。  あ、あれっ?!

さくらがついて来ないことに驚いて、素っ頓狂な声を上げると、慌てて玄関に戻ってきた。

その様子が何だか光一らしくて、さくらは下を向いて小さく笑った。

ほんの少しだけ緊張がほぐれた気がした。

「どうぞ…あがって。」

光一は、一瞬その顔に照れた笑みを浮かべたが、すぐに真剣な表情に戻ってこう続けた。

「剛…でしょ?」

「…はい。」





リビングまで来るとさくらにソファをすすめてから、自分はカウンターの向こうに入っていった。

初めて訪れた光一の部屋…

さくらがキョロキョロと見回すと、ソファの端には読みかけのF1雑誌が広がっていて、

ガラスのテーブルの上には携帯が無造作に置かれたままだった。

見上げると天井ではエアファンが静かに廻っている。

きちんと整頓された無機質な部屋…

想像してた通り、光ちゃんらしい部屋だわ

「コーヒーでいいかな?」

二つのマグカップを手にした光一が、突っ立ったままのさくらにもう一度声をかけた。

「…座って。」

ガラステーブルの上に、コトンと音を立ててカップを置く。

そして、大きな皮のソファに座ったさくらの隣…一人分の間隔を空けて光一が腰を下ろした。

深く沈みこむソファの感触が伝わって、心臓が爆発しそうだった。

「剛…なんて?」

光一はコーヒーを一口だけ飲むと、それを手に持ったままで静かに聞いた。

「あ…あの、剛くんから電話をもらって。」

「電話したんや、あいつ…」

「はい…。」

下を向いたままで答えた。

「で? 率直に聞くけど、伊藤さんは何でココに来たん?」

「あの…私。」
(会いたかった…あなたに)

「剛に…頼まれて仕方なく来たん?」

「えっ?」

思わず顔を上げて、隣に座る光一を見た。

彼は正面を向いたままで、その横顔からは何も読み取れない。

「迷惑やったんちゃうの?」
(…大体、何で電話なんかしたんや?剛のやつ)

下を向いたままで、さくらが小さく首を横に振った。

「そ…か。剛が電話なんかして、悪かったな。」

「剛くんは、悪くないわ。光ちゃんのこと、誰よりも心配してた…」

「別に心配されるほど落ち込んでへんつもりやけどな。」

「あ…ご、ごめんなさい。私…」



さくらのバカ…何で来ちゃったの?

光ちゃんが私のことなんかで、落ち込むなんてありえないのに…


自分とのことが原因で光一が落ち込んでいる…そう剛から聞いて、つい真に受けてしまった。

それは、剛の話を聞いた時、微かな思いがさくらの胸に芽生えていたからかもしれない。

もしかしたら、光一も自分と同じ気持ちなのではないか…と

しかし光一の言葉に、その淡い期待は無残にも打ち砕かれてしまった。

光一自身に『話をしたい』とか『会いたい』などと、言われたわけではなかった。

考えてみれば、あの夜…光一を拒絶したのは、他の誰でもなくさくら自身なのだ。

それを、今頃になって突然こんなところまで押しかけられて、光一にとってはさぞかし迷惑だったろう。

怒っているだろうか?

いや…のうのうと部屋までやって来たさくらに驚き、そして呆れ返っているに違いない。

そんな風に考えると、自分が惨めで情けなくて、とてつもなく恥ずかしかった。

だから光一の一言は、それが彼の強がりであることに気付かないさくらにとって、

その心を痛めつけるには十分すぎるものだった。



「ごめんなさい。帰ります、私…」

さくらは突然立ち上がり、そのまま玄関に向かって走り出していた。

「ちょ…ちょっと。」

光一は、さくらが突然『帰る』と言い出した理由が分からず、慌てて玄関まで追いかけて行った。

「待って!」

靴を履こうとしていたさくらの腕を、大急ぎで捕まえる。

驚いて振り返るさくら。

その瞳に溢れている涙に気付いた光一の動きが止まる。

今すぐ抱きしめてしまいたい…そんな衝動に駆られながら、光一は静かに言った。

「…会いたかった。」










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