さくら月夜



第二章 物語の始まり



翌日、さくらは事務所が指定した眼鏡店を訪れていた。

そこは麻布の大通りに面した高級店だった。

えっ?こんな高級なお店…やだな、入りにくい。どうしよう?

さくらが店の入口で躊躇していると、店員らしき年配の男性がドアを開けながら声をかけてきた

「いらっしゃいませ。よろしければ、どうぞ中へ…」

「あ・あの…」

「どうぞ。失礼ですが、伊藤様では?」

「えっ?なぜ私の名前を?」

「ジャニーズ事務所様より、ご事情はうかがっております。」

男性はとても紳士的な態度で、さくらに、事情は聞いている旨説明し、どこかへ電話をかけた。

「こちらで、しばらくお待ちいただけますか?」

男性に案内されたのは立派な応接室だった。


どのくらい待っただろう?

出されていたことも忘れていたコーヒーを飲むと、すっかり冷めていた。

やっぱり帰ろう…

さくらがドアを勢いよく開けた瞬間


鈍い音がした。


「痛ったぁ〜」

「あ…ご・ごめんなさい」

先ほどの店員とは違う声に驚いて顔を上げると、そこには光一が立っていた。


「あ〜ビックリしたわ、もぅ…」

息を切らせながら、光一が言った。

「あ…こんにちは。お待たせしてすみません。昨日も突然伺ったりして失礼しました。」

「こ・こんにちは。いえ、そんな…」

さくらの驚きをよそに、光一はさっきの店員に親しげに声をかけた。

「和田さん。伊藤さんに似合いそうな物、見繕って持ってきてくれへんかな?」

「あんま時間ないねん。悪いけど急いでな〜。」




えっと?何で光ちゃんがココに?事務所の人は?

昨日といい今日といい、さくらの頭はすっかりパニック状態に陥っていた。

そして5分もしないうちに、店員がビロード製の盆の上に数本の眼鏡を載せて入ってきた。

「さ〜、どれが似合うかな?和田さんもココにいて、意見聞かせてな。」

その人物に声をかける時、光一はとても自然で穏やかな笑顔だった。

はぁ…間近でこんな自然な笑顔の光ちゃん見れるなんて…夢みたい

「伊藤さん?お〜い…大丈夫ですか〜?」

ぼ〜っと、二人のやり取りを見ていると、光一がさくらの顔の前で両手を振った。

「あっ!はいっ!!大丈夫ですっ!!!」

驚いて、咄嗟に大声で答えてしまったさくらに、光一が吹き出した。

光ちゃんが笑ってる…やだ…恥ずかしい

そう思った瞬間、緊張の糸が切れたように涙が溢れてきた。

「えっ?あっ…そんなつもりで笑ったんじゃ…。困ったな。どうしよう?ちょ…和田さん助けてや。」

「伊藤様、そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよ。

光一さんは伊藤様を獲って食ったりなどなさいませんからね。どうぞ安心してください。」

和田は、必要以上に丁寧な口調で、にっこりと微笑んで言った。

「あ〜ひっど〜…和田さんったら。うひゃひゃひゃ…」

「くすっ…」

さくらもつられて思わず笑ってしまった。

「あ、伊藤さんまで。二人ともヒドイな〜。…でも、もう大丈夫そうやね?」



和田の機転の利いた助け舟のお陰で雰囲気も和み、ようやく眼鏡を選ぶことになった。

和田の選んできた眼鏡は、どれもさくらによく似合うデザインばかりだったが、

少しだけ迷った振りをして、さくらはひとつの眼鏡を選んだ。

もちろん、最初からそれに決めていた。

最初に光一が選んでくれたものだったから。

その頃には緊張もすっかりほぐれ、応接室の中には3人の楽しげな笑い声が溢れていた。



その日

光一は、舞台は休演日だったがレギュラー番組の撮影予定が入っていたために

撮影所に向かう途中、偶然、事務所に立ち寄っていたのだった。

そこへタイミングよく和田から電話が入ったので、急いで店へ向かったという訳だ。



「それじゃ、伊藤さん。僕はこれで失礼します。」

「いろいろとありがとうございました。」

さくらはお礼を言うと、光一を見送るために応接室を出た。

4・5歩ほど歩いた時、突然光一がくるりと振り返って言った。

「明日…お待ちしていますよ。」とても優しい笑顔だった。

さくらは丁寧にお辞儀を返しながら、そっと涙を拭った。

そして光一が見えなくなるまで、その姿をずっと追っていた。

それでも数分前の現実が、さくらにとってはまるで夢の中の出来事のように思えて仕方なかった。



「どうぞ。」

和田が、さくらにハンカチを差し出しながら、ポツリと言った。

「あんなに楽しそうな光一さん、久しぶりに拝見しました。…本当に久しぶりに」







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