さくら月夜



プロローグ

「今、帝劇内でお茶飲んでる。もうドキドキで心臓が口から飛び出して来そうだよ〜(>_<)」

私は、クスクス笑いながら届いたメールを読み、すぐに返信した。

「しっかり光ちゃんと握手しといで〜♪」

それが、まさか…こんな展開になろうとは、一体誰が予想できただろう?




第一章 出会い



2003年1月14日

その日、さくらは帝国劇場にいた。

堂本光一主演のミュージカル「SHOCK」を観劇するためだ。

「どうしよ〜?ドキドキして、何だか胸が痛いよ…。握手、本当にできるのかな?」

うわっ、だめだ〜!!

いつもなら友人達に続々とメールを送っている頃だが、今日はそれどころではなかった。

この後に起こることを想像するだけで胸がドキドキして、じっと座っているのももどかしかった。




・・・まもなく開演時間です・・・

館内放送が時間を告げると、さくらは意を決したように立ち上がり、客席へと向かった。

そう…運命の客席に…。


照明が完全に落ちる前に音楽が流れ始める。

それが開演の合図だった。

ざわついていた客席が徐々に静まり、高まる期待があたりに広がっていくのがわかる。

そして

客電が消える





あ〜ぁ…

あの時、なんで眼鏡で行ったんだろう?

せっかく新しくコンタクトも準備してたのに…

でも、あの席ならコンタクトは必要なかった訳だし…

光ちゃんのせいじゃないは分かっているけど、なんだかな〜

それにあのマネージャーだっけ?!

あれから何も言って来ないじゃないの?!もう1週間以上も過ぎてるっていうのに…

私の眼鏡…一体どうしてくれるのよ〜

いつまで待っててもしょうがないよね。

やっぱり自分で修理するか、新しいの買わなくっちゃ…ふぅ。



ピンポーン♪


さくらが繰り返し溜息をついていた時、突然玄関のチャイムが鳴った。

宅配便かな?

「はい。開いてますよ。どうぞ。」

返事をしたが、玄関の小窓から見える人影は、そのまま黙って立っていた。

キャップを被った小柄な男性のシルエットは、いかにも宅配業者のように見える。

何よ、もぅ!開いてるって言ってんだから、さっさと入ればいいじゃない!

「どうぞっ!」

少し苛立ちながら玄関のドアを開け、睨み付けるように相手の顔を見上げた。

えっ?


「こんにちは。」

その男性が口を開いた。

「あ…こ・こんにちは。・・・えぇっ?」

そこに立っていたのは紛れもなく『堂本光一』本人だった。

「驚かせてすみません。伊藤さん、ですよね?初めまして、堂本光一です。」

「は・はじめまして…」

さくらはポカンと口を開けたまま光一を見上げていた。



え〜?何?本物…だよね?

光ちゃん一人?何で?

マネージャーとか…一緒じゃない?

あっ、道の向こう側に車が停まってる…



「今は僕一人です。事務所の者は車で待たせてますから。」

光一は、チラッと道向こうのワゴンに視線を送ってから、黒いキャップを取り、少し照れくさそうに笑った。

舞台の過酷さを物語るように精悍になっていた顔だが

それとは逆に、穏やかな笑顔と涼しげな目元がとても印象的だった。

初めて間近で見た光一の顔は、テレビや舞台で見るよりもはるかに美しかったが、

同時にその美しい顔を除けば、どこにでもいそうな青年…そんな印象も受けた。


「伊藤さん?」

「あ…はいっ。」

ぼ〜と光一の顔に見とれていたさくらが、慌てて返事をした。




そう…あの日

帝劇の最前列で観劇していたさくらは

舞台の幕が上がってすぐに、光一と握手するチャンスに恵まれたのだった。

その後しばらくは

自分の手と舞台上の光一を交互に見つめ、まさに夢見心地だった。

その瞬間までは…


SHOCKの売り物のひとつに、光一のフライングシーンがあった。

光一が舞台の上を幾度となく宙に舞う。

そして、それは二度目のフライングの時に起きた出来事だった。

「きゃっ!」

光一がリボンを手に、客席の上に向かっていっきに舞い上がった瞬間だった。

赤いリボンの裾が、光一を見上げたさくらの顔を掠めた。

カシャン!

微かな音を立てて、さくらの眼鏡が床に落ちる。

慌てて拾い上げた眼鏡は、片方のガラスが割れていた。

「大丈夫だった?」

隣に座っていた裕子に、そっと声を掛けられたが、さくらはただ首を横に振るしかなかった。

どうしよう?

舞台の上に舞い降りた光一に目を向けると、その姿は一気に涙で滲んでいった。




どうしたんや?

その日、光一は最前列に座る一人の客が気になってしょうがなかった。

舞台に集中していたから、正確にはどのあたりからだったか…なかなか思い出せなかったが

ジャパネスクショーが終わった頃だっけ?

熱狂的なファンが、自分の舞台を涙ながらに見ている姿…

そんな光景は幾度となく経験してきた光一だったが、

何か違うねん

幕間に、舞台の袖からそっと覗いてみた。

あ〜ここからじゃ、よ〜見えんわ!

そして、次の登場シーンまで少し時間のあるとき、

トイレに行く振りで、そっと舞台のバルコニー部分に忍び込んだ。

えっ?

懸命に舞台を見つめる女性の膝の上に、割れた眼鏡があるのが見えた。

すぐ下の床に目を移すと、舞台から漏れる照明に光るものがある。

もしかして?

急いで舞台袖に戻った光一は、近くにいたマネージャーを呼び止めた。

「ちょっ…確かめてほしいことがあんねん。」

「あのな…」





「失礼ですが…」

休憩時間になったが、涙で濡れた顔を見られたくなかったさくらは、

裕子の誘いを断って、座席に残ったまま割れた眼鏡を見つめていた。

突然、スーツ姿の見知らぬ男性から声をかけられて

えっ?私…?

あたりを見渡したが、さくらの周囲には、座席に残っている客はいなかった。

慌てて、もっていたハンカチで涙を拭き

「はい?なんでしょう?」
(やだ…明るくなった客席で、こんな顔して…)

見られたくはなかったが、仕方なく返事をした。





「先日は、舞台を観にに来てくださってありがとうございました。」

「あの…マネージャーから事情は聞いていたのですが、なかなか時間が取れなくて…

ご迷惑をかけてしまったこと、本当にすみませんでした。」

ここまで一気に言うと、光一は静かに頭を下げた。



えっ?何なの?光ちゃんが、直接謝りに来てくれたってこと?

「あ・あの…」

事情を飲み込めないさくらが口を開こうとした時

「これ」

光一が、一枚の封筒を差し出した。

「先日のお詫びのしるしに受け取ってください」

「それと…」

「壊してしまった眼鏡ですが、よろしければこちらの店で…」

と言いながら、小さなメモを渡された。

受け取ったメモには、眼鏡店の名前や場所などの詳細が書かれていたが

それが光一の字ではなかったことに、さくらは少しだけ落胆した。

「もちろん、お店の方には事情を伝えてあります。」

「事務所の近くなので、伊藤さんがお店に行かれたら、すぐにこちらの者を向かわせます」

「今回のことは、本当に申し訳ありませんでした」

もう一度、深く頭を下げる光一を見て

さくらは、最初の驚きや興奮が静かに冷めて行くのを感じていた。

逆に申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。

「それじゃ、失礼します」

「あ…」

さくらが慌てて返事をしようとしたが

光一は軽く頭を下げると、既に道向こうの車に向かって駆け出していた。

運転席の開いた窓に、帝劇でさくらに声をかけてきた男性の姿が見えた。





今のは何?まぼろし?

でも、確かに光ちゃんだったよね?本物だった…


光一が立ち去った後も、さくらはしばらくの間、その場に呆然と立ち尽くしていたが

手元の封筒とメモを思い出し、急いで居間に戻りソファに座った。

そして天井を見上げてひとつ深呼吸をすると、そのまま考え込んでしまった。




「ただいま!!」

どのくらい経ったのだろうか?

気が付くと、娘の美雪が帰宅する時間をとうに過ぎていた。

「どうしたの?ぼ〜っとしちゃって?!駅まで迎えに来れないなら、連絡してって言ってるでしょ?」

「あ…ごめん。ちょっとうっかりしてて…」

「あのね…美雪、実は今日…」

さくらが話そうかどうしようか迷っていた時

「何これっ?!え〜?なんでチケットがあるの?」

テーブルの上にあった封筒を目ざとくみつけた美雪が、すばやく中身を確認していた。

「えっ?チケット?」

「1枚しかないじゃん!あ〜お母さんったら、また一人で光ちゃんに会いに行くんでしょう!」

「へ〜結構いい席じゃない?!ところで、どうしたの…これ?」

矢継ぎ早に質問する美雪に、さくらは少し迷ってから

昼間の出来事には触れず、チケットは友人から譲ってもらったと話した。

幸い、眼鏡店のメモはテーブルの下に落ちていて、美雪には気づかれなかったらしい。

「はいはい、もういいでしょ?夕飯の前にシャワーでも浴びてらっしゃい!」

「は〜い」



努めて冷静さを装ってはいたが、さくらの心臓は今にも爆発しそうだった。

チケットって?

美雪が浴室に行ったのを見届けてから、慌ててさっきの封筒を確認してみた。

中には確かにチケットが1枚入っている。

ドキ…ドキ…

2日後か…えっと、座席は…H列?30番?

「な…んだ。最前列じゃないんだ…ハハハ」

興奮しているはずなのに、冷静な分析をする自分が少し可笑しかった。

あれっ?

さくらは、封筒の中にチケット以外の、小さな紙切れが入っているのに気づいた。

『お待ちしています。是非お越しください。光一』

雑誌などで何度か見た…それは確かに光一の字だった。

う・うっそ〜?!

冷めかけていた感情が、再び一気に燃え上がるのが分かった。




「ふぅ…」

衝撃的な一日が終わりを告げる頃、さくらは湯船に浸かって今日何度目かの溜息をついた。

「なんだかジェットコースターみたいな一日だったな…」







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