さくら月夜



第十七章 記憶の追放 



「さむ…」

一晩中暖房はついていたものの、朝はかなり冷え込んでいた。

昨夜、光一が帰った後も泣き続けていたさくらは、

結局泣きつかれて窓の側で、膝をかかえたまま眠ってしまったようだった。

寒さと喉の渇きで頭がぼうっとしていたが、そのうちフラフラと立ち上がり洗面所へ向かった。

「あっ…」

床には、昨日の夜…

光一と二人で頭を拭いたバスタオルが波の様に広がっていた。

夢じゃなかった…夢じゃ…

二人で笑いあい、一枚のタオルを分け合って体を拭いたことを思い出していた。

タオルを手に取り、顔にあてがうと深く息を吸った。

そこに残る光一の微かな匂いが、鼻腔をくすぐって、そこから身体いっぱいに満ち溢れた。

「光ちゃんたら、頭びしょびしょで…。生まれたてのひよこみたいだったよ。ふふっ…」

小さく声に出して言うと、不意に涙が溢れ出した。



涙がこぼれてしまわないように顔を上げると、鏡に映る額の傷が目に飛び込んできた。

赤い花びらのように見えるその傷…そっと指で触れるとズキンと痛みが走った。

「痛っ…」

そして、鏡に映る自分の唇をその指でなぞってみた。

鏡の冷たさだけが指先にまとわりつく。

その冷えた指先を、今度は自分の唇にギュッと押し付けた。

「冷たい…」

光一の唇とは明らかに違う感触…

その感触を思い出すと、胸の奥が締め付けられるように痛かった。

こらえていた涙が瞳から溢れ出て、つっと一筋頬を伝った。

それは、まるで止むことを知らない雨のように次々と流れだしていた。





こんなに泣いたのは何年ぶりだったろう?

さくらは無意識のうちに記憶の糸を辿っていた。

少し前に夢で見た幸彦の姿が脳裏に浮かんできて、息が詰まりそうだった。

あなた…





それにしても、考えれば考えるほど、さくらには解らないことばかりだった。

なぜ、光一が電話をかけてきたのか?

なぜ、この部屋にやって来たのか?

なぜ、あんなことに?

なぜ?  なぜ?  なぜ?


頭の中でこだまのように繰り返していた。



そしてひとつの結論に辿りついていた。

忘れなきゃ。あれは事故だったのよ。ただ偶然…唇にぶつかってしまっただけ…

ただそれだけ…なんだから。

だって光ちゃんが私にKissするはずないでしょう?なに勘違いしてるのよ〜さくら!!




どんなに考えても解らないのだから、もう忘れるしかなかった。

忘れようとして忘れられるものならどんなに幸せか…

しかし、今はそれ以外方法が見つからなかった。

いつか、時間の流れが解決してくれることも、自身の経験から十分に理解していた。

「そうよ。忘れちゃえ、さくらっ!」

自分自身を励ますように声に出して言った。

そんな風に自分で自分を元気付けないと…心が粉々に壊れてしまいそうだった。



「おはようございます。お食事の準備させていただいてもよろしいですか?」

部屋の外から仲居の声が聞えてきた。

「あ、はい。お願いします。」

今日は予定よりも早く旅館を出発することに決めた。







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