さくら月夜



第十四章 真夜中の出来事



「どうしたの?」

突然、背後からさくらに声を掛けられて、光一は心臓が止まるかと思うほど驚いた。

「あ…いや、なんでも…」

「なんでもって。…びしょ濡れじゃないの。」

「あ、これ?ちょっとね…。それより、起きてきたりして大丈夫なん?」

「うん。もう大丈夫みたい。心配かけちゃったみたいで、ごめんなさい。」

「そんなことはええねん。大したことなくてよかった。」

「うん…」

「あ、フロントに連絡して傷薬と絆創膏持って来て貰った方がいいよね?」

「絆創膏なら持ってる。それに、本当にもう大丈夫だから…」

「そう?」

「うん。」

「…それより、早く拭いた方がいいよ、それ。」

そう言いながら、さくらが近くにあったバスタオルで光一の頭を包み込もうとした。

母親が子供にするような…そんな仕草だった。

「え?」

さくらの思いがけない行動に驚いた光一は、思わず後ずさりした。

「うっ、うわぁっ!!」

「きゃっ!!」

バランスを崩した光一は、氷水に浸していたタオルを掴んだままの状態で、

後ろへよろけて、そのまましりもちをついた。

転んだ拍子に、握っていたタオルを振り回してしまったから、たまったものではない。

「冷た〜い!」  「冷て〜!」

声を揃えてそう叫ぶと、次の瞬間にはお互いの顔を見合わせて大声で笑い出していた。





「こんなに笑ったの、何年ぶりやろ…」

「私も…」

ひとしきり笑いあった後、

二人は一枚のバスタオルの端をそれぞれ使って、濡れた顔や頭を拭った。

「くっくっく…」

頭を乱暴に拭きながら、光一はまだ笑っていた。

「なぁに?」

「いや…伊藤さんといると、なんや面白いな〜って」

「まぁっ、失礼しちゃう。」

「あ…ごめん。そんな、悪い意味やないねん。何ていうか…」

そこまで言うと、光一は急に黙り込んでしまった。

今の自分の気持ちをうまく伝える言葉など、そう簡単に見つかるはずもなかった。

気持ちを言葉で伝えるどころか、この時、光一は自分自身にさえも戸惑っていたのだから。

・・・

「ねぇ…さっき」

沈黙に耐え切れずさくらが口を開いた。

「どうしてあんなに驚いたの?私が声を掛けたとき…」

「え?」

「お化けでも見たみたいにビックリしてたじゃない。」
(ごめんね。だって…鏡に映った光ちゃんの表情があまりに切なくて、すぐに声を掛けられなかったのよ)

「え?そうだっけ?そんなことないけど。」
(ココで俺が考えてたこと…全部見透かされたかと思ったんや)

「そうかな?私としてはちょっとショックだったんだけど…」
(何を考えていたの?光ちゃんのあんな辛そうな顔見たくなかったよ)

「あっ、ごめ…ごめんなさい。」

「ふふっ、嘘よ。」
(嘘なんかじゃない…)

「えっ?」

「やぁだ…光ちゃんたら、どぎまぎしちゃって…可愛いんだから。」
(ごめんね。嫌な女だ、私)

「もしかして…まだ、酔ってる?」
(いっそ、その方がいいのに…)

「あはは…そうかも〜」
(光ちゃんのあんな顔見ちゃったら、酔いなんて一気に醒めちゃったわよ)

「やっぱ、もう寝た方がええよ。傷の手当しよ。なっ?」
(俺、どうかしてしまいそうや。このままココにいたら…)





『あの…』

小さな沈黙を破って、二人が同時に声を出した。

互いの言葉を探り合った後、さくらが静かに言った。

「もう、帰った方がいいよ。お願い…帰って。」
(なぜココに来たの?)

「えっ?」

「私はもう大丈夫だし。傷の手当ても一人でできるわ。だから…」
(勘違い…させないで)

「ごめん」
(迷惑だった?俺、なんも考えてなくて)

「謝らないで。光ちゃん来てくれて、嬉しかった。」
(ほんとうだよ。光ちゃんに逢えて…)

「あの…」
(また逢えるよね?)

「なに?」
(行かないで…)

「いや、何でもない。」
(聞けるわけないやん…)

「そう…」
(ひとりにしないで…)

「ホントに大丈夫やねんな?」

「うん。」

「じゃ、行くから…。あと、気つけて」

「うん。」

一言ずつ確認しながら、光一はゆっくりと玄関へ向かった。





このままココにいれば、本当にどうにかなってしまいそうだった。

それが怖くて、いっそのこと早くこの部屋を飛び出してしまいたい…密かにそう願っていた。

だから、彼女が帰って欲しいと言ったとき…心のどこかでホッとしている自分がいたし、

そんな風に感じている自分の身勝手さには、身震いするほどの嫌悪をおぼえた。

ごめん…。俺、勝手やな…

部屋の玄関で、履いてきた時と同じスリッパに足を突っ込むと、

その少し湿った感触が、光一の背筋に冷たく突き刺さった。

(俺、一体何しにきたんや…)

さくらに何を求めてこの部屋にやって来たのか…

衝動に駆られた行動ではあったが、

心のどこかでは、既にさくら自身を求め始めていたのかもしれない。

自分の行動を後悔はしたくなかった。

さくらの部屋に来たことを…



光一は迷った末にもう一度振り返った。

が、さくらはもう光一の方を見てはいなかった。

障子窓をほんの少しだけ開けて、照明の消えた真っ暗な庭をじっと見ていた。

そして、その小さな肩がかすかに震えているのに気付いたとき、光一の中で何かが壊れていった。





えっ?

振り向くと、帰ったはずの光一がすぐ傍に立っていた。

「光ちゃん…」

「ごめん。やっぱこのままは帰れへん。」

「何言ってるの?早く帰っ…」

冷たく言い放つさくらの言葉を遮るように光一がその唇を塞いだ。

あぁ…

冷たいガラス窓の向こう

さくらの肩越しに、闇を照らす蒼い月が見えた。









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