さくら月夜



第十三章 鼓動


裸足のまま部屋から飛び出した光一は、玄関を出たところで

さっき止んだばかりの雪を直に感じ、そこが離れだったことを思い出した。

「しまった!」

裸足のまま中庭を駆け抜けるわけにもいかず、仕方なく部屋へと取って返す。

そして、玄関に備え付けて合ったスリッパを見つけると

濡れたままの足をもどかしげに突っ込み、再び外へと飛び出して行った。

東雲の間…あった、ここや!

はぁ…はぁ…

肩で大きく息をしながら、部屋の名前を確かめると扉に手を掛けた。

少しためらってから、思い切って扉を引いた。

鍵は掛かってない。

しかし、今はそれを不思議に思う余裕さえ光一にはなかった。

そして、玄関で履いてきたスリッパを脱ぎかけた時、

下駄箱に収められている一組の靴がその視界に入った。

あ…

光一の頭にかすかな不安がよぎる。

他に…誰かいる?

電話の向こうでさくらが倒れる音を聞いて、慌てて飛び出してきた光一だったが

考えてみれば、彼女が一人でいるという確証など、どこにもなかったのだ。



しかし、光一は不安と焦りに苛まれながらも瞬く間に観察していた。

その靴が女物であること、出されているスリッパが一組だけであること…

その間も胸は早鐘のように鳴り続けていた。



「・・・失礼します。」

さくらが一人であることを確信した光一は、静かに、そして恐る恐る襖を開けた。





あっ!!

「だ・大丈夫ですか?」

光一は、テーブルのすぐ脇に倒れているさくらの傍に駆け寄って抱き起こすと

片手で、外れたままになっていた受話器を元に戻してから、さくらの様子を確認した。

倒れた時、テーブルにでも頭をぶつけたのだろう…

さくらの額には少し血がにじんでいる。

どうしたらええねん…落ち着いて考えろよ

感情のままに飛び出してきた光一だったが、

思いがけない事態に直面したことで、かえって普段の冷静さを取り戻しつつあった。

このままじゃあかんな。とりあえず布団に寝かせて、傷の手当てをせな…

フロントに連絡するのは、それからでもええやろ


もう一度さくらの顔色や呼吸など確認し、大事には至っていないと判断した光一は

そのままさくらを抱えあげると、続き間へ運んだ。

そして、その体を布団の上にそっと横たえようとしたとき、

さくらの浴衣が少しはだけて、白い胸の谷間が光一の目に飛び込んできた。


ドクン!

光一の心臓が大きく鼓動した。


「あっかん…何見てんねん!俺は…」

一瞬の動揺を打ち消すように頭を振ると、そのままさくらの体にそっと毛布を掛けた。

「待っててな…」

さくらの耳元に声をかけると、急いで洗面所へと向かった。

そして冷蔵庫の氷を洗面器にあけ、そこにあったタオルを浸して軽く絞る。

さくらのところに取って返し、額の血をそっとぬぐってからタオルをそのまま傷の上に当てた。

「う…ん…」

「あっ、気が付いた?」





冷たい…

額に置かれたタオルの感触に、さくらは意識を取り戻しつつあった。

薄っすらと目を開けると、自分のことを心配そうに覗き込む瞳に気付いた。

だ…れ…?

頭がボーっとして、それが誰なのか分からない。

額に置かれたタオルに手をやると、同時にその人の手がすぅっと伸びてきた。

「気が付いた?」

優しい声がさくらの耳に届いた。

ゆっくりと瞬きをして、もう一度その人の瞳を見たが、再び目を閉じた。



前にも同じこと…あった? それとも…夢?

さくらは、はっきりしない頭で必死に考えようと試みたが、

デジャヴュのような不思議な感覚が、余計にその頭を混乱させていた。



「伊藤さん…」

今度はさっきよりハッキリと聞えた。

ふふ…何だか…光ちゃんの声が聞える…やっぱり夢見てるんだ



さくらは、少し前にTV番組で「夢」についての特集をやっていたのを思い出していた。

夢の中で、自分が今「夢を見ている」ことに気付いたとき

その夢の中では、現実ではおよそ不可能と思えるような行動をとること!

そうすることによって、潜在能力を引き出すことができるらしい…

確か、そんな内容だった。



「光ちゃん…?」

さくらは目を閉じたまま、思い切ってその名前を声に出してみた。

「なに?」

やっぱり…

今度はそっと手を伸ばしてみた。

さくらの手を、少し冷たくて乾いた手がそっと包み込んだ。

あの時と同じ手だ…

1月の舞台で光一と握手した時の感触を思い出していた。

その時の映像が、さくらの頭の中にフラッシュバックしていた。

痛っ…

額に痛みを感じて、少しだけ思い出した。

あ〜そうだ。転んで頭ぶつけたんだっけ…。あれ?それも夢?

ビールの酔いも手伝ってか、さくらは自分が眠っているのか浅い夢を見続けているのか

それともこれが現実なのか、完全に分からなくなっていた。

そして、思い切ってゆっくりと目を開けた。

「あ…気が付いた?気分はどう?」

声の主が光一であることを確認したさくらは、動揺することもなくゆっくり起き上がろうとした。

「大丈夫?」

光一はさくらの背中に手を添えて、そのまま抱き抱えるようにそっと体を支えた。

さくらの体に掛けられていた毛布がスルリと落ちる。

「あっ…」

光一が慌てて目をそらした。

「?」

驚いてその横顔を見つめると、心なしか赤らんでいるのが分かった。

「ふふっ…」

さくらは自分の浴衣がほんの少しはだけているのに気付いて、急いで胸元をあわせた。

そして、なぜだか急に可笑しくなって、思わず笑い出してしまった。

「笑います?ふつう…」

光一が、赤い顔でそっぽを向いたまま言った。

目が泳いでいるのが分かる。

その端正な横顔からは想像できないくらいの少年っぽい反応を、さくらはとても愛しく感じた。

「くっく…ごめんなさいね。何だか光ちゃんがとても可愛らしく見えちゃって…っつ」

「痛いの?」

照れて赤くなっていた光一の表情が、一瞬のうちに曇るのがわかった。

「タオル、もう一度冷やしてくるから…」

そう言って立ち上がった光一の後姿を、さくらはそっと目で追っていた。

なぜココにいるの?

現実に引き戻されるのが怖くて、さくらはその一言を口に出せなかった。

そして、できる限り自然に振舞うことで、その不安を消し去ってしまいたかった。

今だけは…





「ふぅ…」

まいったな…

タオルを氷水に浸しながら、光一は鏡に映る自分の顔を覗き込んでいた。

さっき見たばかりの…さくらの肌と形のよい膨らみが目の前にちらついて

心臓がドクドクと波打っているのがわかった。

子供っぽく「くっく…」と笑った喉さえも、その白さが妙になまめかしく頭に焼き付いていた。

何考えてんねん…

光一は氷水に両手を突っ込むと、その冷たい水を顔にバシャバシャと浴びせた。

柔らかい髪の端が濡れて、冷たい水の雫がポタポタと落ちていった。









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