さくら月夜



第十一章 雪の夜に


旅館に到着する頃には、チラチラと雪が舞い始めていて、さくらの体はすっかり冷え切っていた。

「冠峰楼」と書かれた門をくぐると、手入れの行き届いた懐かしい庭園が目に入った。

部屋から見えた庭がとても素敵だったから、翌朝早起きして二人で散歩したっけ

朝露に濡れたアジサイの花がすごく綺麗だった…あの時と同じ部屋に泊まれないかしら?


フロントで宿泊の手続きをする時、思い切って聞いてみた。

「あの…離れが空いていたら、そちらに泊まりたいのですが。一人ではだめでしょうか?」

「申し訳ございません。あいにく離れの方は既にご予約が入っておりまして…」

「その他にご要望がございましたら、できる限りお応えさせていただきますが?」

さくらが落胆の色を浮かべたのに気付いた支配人が、そう付け加えるように言った。

「では…無理を言って申し訳ないのですが、できるだけお庭がよく見えるお部屋を…」

「かしこまりました。ご案内いたしますので、どうぞ。」

通されたのは、離れに程近い窓の大きな部屋だった。

さくらを案内してきた仲居が、施設の案内や食事時間の確認などを済ませてから

テレビ番組の収録が行われること

一般客には迷惑のかからないよう配慮していること

迷惑に思える事態が起きたときは、フロントに連絡して欲しいこと

など…申し訳無さそうに付け加えて頭を下げた。

一人で静かに過ごしたかったさくらは、少し戸惑ったが、

一般客に迷惑はかけないという仲居の言葉に安心して頷いた。

仲居が去った後、さくらは窓際に立って、しばらくの間じっと外を眺めていた。

真っ暗な庭に、灯篭の明かりが優しく灯っていた。

その穏やかな光に、さっき降り始めた粉雪がキラキラと反射して、とても綺麗だった。

冷たいガラスに頬を寄せたまま、いつまでもいつまでも眺めていたかった。





「おぉっ〜!すっげ〜!!何?何?この景色、独り占めなのかな?」

離れに案内された光一が、その広さと豪華さに驚いて興奮気味に言った。

「いいでしょう?じゃ、そろそろ温泉に行きますか?」

「うん。行こ!行こ!」

剛に促されるように先に着替えを済ませた光一が、

ガラス張りの窓にくっつくようにして庭を眺めた時、その視界の隅に一瞬だけ人影が映り込んだ。

あ…そっか。窓に近づきすぎると他の部屋の窓が見えるんだ。

…てことは、反対に向こうからこっちも見える訳やな?気をつけよ。


「光一、行くで!」





しばらくの間、庭の明かりと雪を楽しんでいたさくらだったが、

体が冷え切っているのを思い出し、ようやく窓から離れた。

「あ〜温かい。」

熱いお茶を飲んで落ち着くと、心地よい疲れに襲われて、少しの間ウトウトしてしまった。

気が付いた時には30分あまりが過ぎていた。

さくらは、食事の前にお風呂に行こうと思い、開けっ放しにしていた窓の障子を閉めると

急いで浴衣に着替え、部屋を出た。

露天風呂に向かう途中、テレビ局のスタッフらしき人とすれ違ったが、さして気にも留めなかった。





参ったな…まさか剛と同じ部屋で寝るやなんて。

しかも、まだ時間早いっちゅうねん!!


10年ぶりに枕を並べた相方剛は、既にスヤスヤと寝息を立てていた。

剛さん、剛さ〜ん。」

ダメや。こいつ、完全に夢ん中や。相変わらず早寝やねんな〜、ハハハ。

スタッフも起きてへんのかな?


いろいろ考えているうちに、完全に寝そびれてしまったようだ。

「あ〜もっ!!布団の中でぐずぐずしててもしゃ〜ない。もうひと風呂浴びてくるか!」





さくらは食事を済ませた後、しばらくはテレビを見ていたが、

一人きりの夜はあまりに長すぎて、なんとなく時間を持て余していた。

「そうだ。もう一度ゆっくりお風呂にでも入ってこようかな?」

誰もいないのに声に出してそう言うと、肩まで伸びた髪をさっとまとめて部屋を出た。

露天風呂までのびた長い廊下を歩いていると、窓から庭の見える場所があった。

その窓に顔を着けて外を覗くと、さっきまで降っていた雪はいつの間にか止んでいた。

雪の露天風呂はもう終わりか…残念

その時、洗いざらしの髪を乱暴に拭きながら、さくらの背後を通り過ぎた男性がいたが、

外を夢中で見ていたさくらは、その存在にまったく気付かなかった。

そしてそのまま露天風呂の暖簾をくぐって行った。





あっ!!

廊下に人がいるのに気付いた光一は、少しうつむき加減で

わざと髪をクシャクシャと拭きながら、急いでその横を通り過ぎようとしたが、

その人があまりに一生懸命外を見ている姿を不思議に思って、ふと振り返った。

そして…

あれっ?

ガラス窓に映ったその横顔がさくらに似ていることに気付いた。

さくらが箱根に来ている事は和田から聞いて知っていたが、

目の前の偶然にも、まさかと思う気持ちが強くて、声をかけることなど出来るはずもなかった。

その人は光一の存在に気付くこともなく、そのまま背中を向けると露天風呂の暖簾をくぐって行った。









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